「できないことを」
できないことを補い合うのが、家族だと思ってきた。
けれども今朝、
できないことを、できないままでいさせてくれるのが、
家族なのかもしれないと思った。
個でも、家族という単位でも、できなくてもいい。
社会に、他人に補ってもらえばいい。委ねればいい。
「わたしたち」だけで、仕立て、完結する必要はないのだ。
子どもができないことを、僕がすべて補ってあげる必要はないし、そもそも、すべては補えない。
それよりも、「できないこと、足りない部分は、補わなければいけない」という考えから開放してあげることのほうが、広がりがある気がしたのだ。
僕は無意識に、というか、当たり前のように、「足りないものを補う」ことを前提として生きていた。
だから、家族に「補うこと」を求め、それが得られないことに、イライラや孤独を、勝手に感じたりしてきたのだろう。
あれだけ「自分にできないことがあってもいい」と思ってきたつもりだったけれど、僕という個人はできなくてもいい代わりに、家族という単位で補うことで、完結させようとしていた。
「補完」ってやつだ。
僕(個)→家族→社会
という順で、ひとまわりずつ大きくなる円があるとすれば、家族で完結させたかった僕は、社会に対して閉じていて、社会を信頼していなかったのだろう。
社会ってやつは、怖いところだから、助けてもらえないところだから、家族という単位で城壁をつくって、身を守ろうぜ、という感じだ。
だから、家族内でルールは増えるし、規律があるし、みんな僕の顔色をうかがうようになる。
僕は僕で、家族をサバイブさせるために、家族の幸福度を高めるために、一生懸命やってるつもりなんだけれど、笑い合う時間は、どうにも増えたりしていかない。
これは、おかしいぞ。
と、ずっと思ってきた。
でも、もしかしたら、少し変われるかもしれない。
できないことを、
できないままにしておける家族。
できないことを補い合うのではなく、
できないことを笑い合うのが、家族。