罪悪感を手放す

休日に出かけようとするとき、子どもに「行かないで」と言われ、行くのをやめる。

行きたい気持ちを我慢して過ごしていると、その我慢は、どこかで不満として表に出てきてしまい、子どもに当たり、結局悲しませてしまう。

これなら、初めからパッと出かけてしまったほうが、マシだったのではないか。
次こそは、出かけてしまおう。

そう決めても、いざその場面がやってくると、子どもの悲しそうな顔を見ているうちに、やっぱり行かないでおこうとなり、我慢してるもんだから結局怒ってしまい、、、。

こうした場面で、思い切って出かけてしまったこともあるが、「じゃあね」と子どもを振り切ったあと、罪悪感でいっぱいになる。
ひとりで歩いていると、「ここまでして、したいことなのだろうか」という気持ちになり、たのしい予定も、たのしめるはずがない。

やっぱり出かけるべきではないのだ、なんて結論になって、次は「反省」を生かして、出かけないでいると、それはそれで自分が我慢しているもんだから、結局怒ってしまって、、、。

こんな出口の見えない負ループを、これまでに何度繰り返してきたことだろう。

で、これを書いている今、ぼくは子どもを振り切って、ひとりでカフェにいる。
別れ際、子どもは悲しい顔をしていたし、ひとりで歩きながら「こんな思いをしてまで、俺はカフェに行きたいのか…」と悲しい気持ちになった。

が、「俺は、そこまでしてカフェに行きたいのだ」という気持ちを認めることにした。

そして、ぼくが罪悪感を持っているから、子どもは悲しい顔をしてくれているのだ、と思うようになった。

子どもが悲しそうにしているから、ぼくが罪悪感を持つのではない。

逆なのである。

ぼくが罪悪感を持っているから、子どもは悲しそうにしてくれるのだ。

「子どもに悲しい思いをさせるのはよくない」

「子どもに悲しい思いをさせてまで、自分のやりたいことを優先するのはよくない」

「それは、ダメな父親のやることである」

そうぼくが信じているから、信念と呼べるくらいに思い込んでいるから、生まれてくる罪悪感。

だから、いざぼくが、自分のやりたいことを優先しようとすると、子どもが悲しい思いを「してくれている」のである。

これがよく言う「思考は現実になる」ってやつだ。

子どもが悲しまなければ、ぼくは罪悪感を持たずに、自分のやりたいことを優先させられるのではない。

逆なのだ。

ぼくが罪悪感を手放し、
「自分のやりたいことを優先しても、子どもはたのしそうにしてくれる。」
「自分のやりたいことを優先すれば、家族みんなが幸せでいられる」
と思い込みを書き換えるのが先だ。

罪悪感を持ったまま、自分のやりたいことを優先しても、状況は変わらないだろう。

罪悪感を手放すのが、先。
思考を変えるのが、先。

きっと、ぼくは、たくさんの思い込みのなかで生きている。
どんどん、それに気づいて、書き換えていこうと思っている。

ぼくは、ぼくの生きたい生き方を、選んでいけるのだ。

(帰宅したら、子どもはたのしそうに遊んでいました)

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