子供は自然

気弱なボクの日記帳

子供は自然なんだな、と、笑いかけてくる子を見て思った。

つい、さっきまで、あーだこーだ言ってきていた僕に、この子はにっこりと笑ってくれる。
僕もそれにつられて、ぎこちなく笑い返す。
ぎゅうっと硬くなっていた身体と心が、スゥ、とほぐれていくのを感じる。

その、ほぐれてできた隙間を埋めるように、「子供は自然だ」という養老(孟司)さんの言葉が、ふっとわき上がってきたのだった。

ほんとに、そうだなぁ、と身に染み渡っていく。

たとえば、人は山のなかで、生い茂る木々や、風のささやき、絶景などに、癒しを求めたり、山の幸のような恵みを頂くこともできる。

だけれど、嵐が吹くこともあれば、無防備のために遭難したり、痛い目に遭うこともある。

人が、山をコントロールすることなどできないし、おこがましいことである。

僕の父の祖母、つまり、ひいばあちゃんは、山菜採りなどをするときには、必ず手を合わせ「これから、入らせていただき、お恵みを頂かせていただきます。」と山の神様におことわりしてから、山に入っていったそうだ。

人と山との関係は、こうあるべきだと思う。

せっかく山頂に着いたのに、期待していた絶景が荒天で拝めなかったからといって、文句を言ったり、仕返しに山を痛めたりするのが良いことだろうか。
(そもそも、自分で勝手に登り始めたのに)

はたまた、エベレストのような山脈では、天候や環境しだいで、登頂を断念せざるを得ない場合もある。そこで己の欲にこだわりすぎては、命を落とすことになりかねない。

山は、自然は、「自己実現のためのツール」ではないし、「人間にとって価値のあるもの」でもないと思う。

人間は、自然のなかで、生かされているに過ぎない。

子は、自然そのものだ。
だから、僕にとっての「いいとき」もあれば「わるいとき」もあるが、それが、自然というものだ。

子は、僕にとって、一番身近な、自然。
僕はその恵みを享受するだけなのだ。

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