笑っている僕でいたい

スマホ(iPhone)の待ち受け画面を、長女の写真にした。

それまでは長らく、新婚旅行で出かけた、アメリカのYosemite国立公園のトレイル入口で撮った写真だった。もう一度行きたいと思い続けて、もう7年も経ってしまった。それでも、行きたいという気持ちを忘れないように、飽きずに表示させ続けてきた写真。

写真を変えることにしたのは、長女を怒らないで済むようにしたいからだ。

僕は残念なことに、怒りという感情に支配されてしまうと、言わなきゃよかったということまで言ってしまう。学びが少なく、何度も同じことを繰り返してしまう。

昨晩も、いろいろなことが重なって、眠れない長女に向かって「余計なこと」を言って泣かせてしまった。その時の僕はというと、自分で自分の気持ちが抑えられずにいて、自分の理屈が正しいとか、これは言って仕方ないことなんだ、と思い込んでしまっている。いや、正確に言えば、思い込もうとしている。奥底の方では「そんなわけないだろ」と叫んでいるもう一人の僕がいるのだが、あまりにも奥の方すぎて、その声は僕の理性には届いていない。微かな気配を感じながら、頭に血が昇った僕はその声を聞こえないふりをしている。

どうしたら怒らないでいられるのだろう。怒りという感情は、僕にとってコンプレックスだ。怒りはたいてい不満や不安とセットになっていて、怒らないようにするということは、不満や不安を抱えたままにするということになる。だが、僕はそれを抱えたままにするだけの忍耐もユーモアも足りていないらしく、一刻も早く解消したい気持ちでいっぱいになる。

最近読んだカウンセリングの本には「他者との境界線をはっきり引くことが大事だ」と書かれてあった。境界線を引くことで、自己犠牲が過ぎないように自分を守りつつ、他人への適切な配慮もできるようになるということらしい。

けれど、僕は長女との間の、どこに境界線を引けばいいのかが、わからないでいる。

「早く迎えに来てほしい」という娘のために、仕事をなるべく早くに終わらせて、少しでも早く幼稚園のお迎えに行ったはいいが、娘は帰ろうとせず、幼稚園のブランコで遊びたがる。最近は日が暮れるのが早いし、冷え込むので早く帰りたいので、「あと5分だけだよ」と言うと「嫌だ!」と返す。

そうかと思うと、お友達がお迎えに来てもらうや、今度はその子と一緒に帰りたいと言い出す。帰る方向が違うので「途中までだからね」「わかった」というやりとりをした上で自転車に乗せるが、分かれ道に来ると同じ方向から帰ると言って騒ぎ出す。

こんなことが、ほぼ毎日のように起こる。

家ではルンバと化した次女が、ハイハイで床の埃をかすめとりながら、あらゆる紙片を口に入れ、定期的に抱っこをしろと泣く。もうすぐ1歳になるが、いまだに夜泣きをし、2、3時間おきに起きる。奥さんは慢性的に寝不足気味なので、昼寝をさせてあげようと、僕は次女をおんぶして仕事をする時もある。当然、うまく仕事が進まない。

そんな中で、長女の「嫌だ!」を聞くと、タイミングによっては一瞬で怒りがわきあがってくる。
そして言わなければいい言葉まで叩きつける。

それは長女との間に境界線を引くためというより、単に「罰したい」「嫌な思いをさせてやりたい」というだけではなかっただろうか。そんな自問を繰り返してばかりだ。

「もう怒らない」という決意は、これまでも役に立ってこなかったし、これからも役に立たないだろう。具体的に行動を変えるしかない、ということで、スマホの待ち受けを長女の写真に変えたのだった。

もし次に怒りそうになった時は、スマホを手にし、たくさん撮り溜めてきた長女の写真を見ることにする。どの写真の長女もかわいいことに違いないが、もっと重要なのは、どの写真を撮っているときも、僕は笑顔だということだ。全ての写真の背後には、娘を愛おしみ、笑っている僕がいるのだ。

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